新型インフルエンザの国内感染が広まっています。国を挙げて対策が進められるなか、感染者を出した高校に、避難の電話が殺到するという残念なニュースを聞きました。誰も免疫がないウィルスに感染したからと言って、学校や生徒に落ち度があったとは思えません。むしろ冷静な対応こそが必要だとおもいます。
昔の人はこんな時に疫病退散の儀式を行いました。儀式そのものに科学的な根拠はないのかもしれませんが、大きな災厄を前にして多くの人が心を一つにすることで、冷静な対応をすることができるなら、二次的、三次的な被害を防ぐ役に立つかもしれません。とりわけ博多山笠をはじめ、現代に伝わるいろいろな行事が、疫病退散の儀式から始まったと言われていますから、そこには先人が後の世に伝えたいと願った、何らかの効用があったとも考えられます。
ちなみに三大長谷寺のひとつ、長野県の金峯山長谷寺(長谷観音)のご住職のblogには、疫病退散のために写経を行ってはどうかという記事がありました。
http://www.hasedera.net/blog/2009/05/post_135.html
この中では、写経の前に口をすすぎ手を洗うという実質的な効用まで指摘されておられましたが、人の力を超えるものの前に祈るという行為が、今こそ意義があるような気がします。
昔は、子供の頃からお寺に顔出すのが当たり前とされていました。大人になって自分の先祖を供養していただくだけでなく、お盆やお彼岸などの行事にはお手伝いをしにでかけるのが普通でした。人間というのは弱いもので、自分の身を守るだけで精一杯なこともあります。それだけに、自分だけでなく、家族、仕事仲間、ご近所と、より多くの人を助けられる人間になってゆくのは、理想の生き方です。お寺に行き、そこに集まる人々のために奉仕するというのは究極のボランティア活動と言えます。お寺というのは、お坊さんをはじめそういう「徳の高い人々」の集まる場所ですから、子供のうちから出入りさせるのには非常に意味のあることだと言えます。観光客として有名な寺院を外から拝むだけでなく、代々のおつきあいのあるお寺に顔を出すというのも、お寺との本来のおつきあいのあり方なのではないかと思います。
インターネット上でも、最近永代供養のご案内をよく見ます。家や宗派にとらわれず、好きな場所で供養されたいという方が増えたためだと思われます。以前は無縁仏と言われることもありましたが、本人の意思で生存中に供養のされ方を選ぶという、積極的な意味合いがあるように思います。\r\n一方、昔からの永代供養は、お寺にとって特別な功績のある方の霊を、寺の続く限り供養するというものでした。しかしどんな方でも、一度お寺で供養を受けたなら未来永劫供養され続けるのと同じでしょうから、永代供養というのはなかなか良い名称だと思います。ですから、どんな供養が正しいということはないでしょうが、家のお仏壇に安置され何世代にもわたって供養されるというのは、とりわけ現代では特別に恵まれた方と言えるでしょう。核家族化が進み、どんな家にでもお仏壇があるというわけではない現代では、そういう方が少なくなってるのかもしれません。だとすると、ちょっと寂しいような気がします。